Past live + PRESENT

私の中の
見えないけど
観えた
不思議なお話し

FLOWEROFLIFE

カルマとの出会い

ある日、あなたのカルマはコレです。
と、突きつけられました。



2017年3月
いつも行く美容室でふと目に留まった1冊のがありました。

そこに何が書かれていたかは忘れてしまいましたが、著者の方はスピリチュアル的な「ヒーリング」をされる方でした。

すごく気になって連絡先を写メしてすぐに予約を入れることにしました。



当時スピリチュアルという分野に興味があったことと、幼少期から見えないもの(宇宙など)に大きな興味を抱くタイプだったので、予約をした後はどんなことが起こるのかワクワクした気持ちで過ごしていたのを思い出します。



初めましての1回目は、必ずカウンセリングのみとのことで、ヒーリングは受けませんでした。

そこでは「あなたはインディゴね」と言われたことだけ覚えています。
少しワクワクした気持ちで、次の予約を取って帰路につきました。



そして2017年4月
ついにヒーリングを受けられる日、
一体何が見えるのだろう?
私の魂の目的がわかるのかな?
と期待と緊張半々でスタートしました。



その時のことはほとんど忘れてしまいましたが、一部だけ鮮明に覚えています。

とにかく、当時の私に必要なのは、魂の目的とかそんなものではなく、
カルマを解消することだと。

期待していたものとは違いましたが、言われるがままにヒーリングを受けることになりました。



その鮮明な記憶は、ヒーリング中に私の頭の中に浮かんだ映像で、
「アルプスの少女ハイジに出てきそうな草原に佇み、足元を見る自分」でした。

そこからは動けなくて、後ろを振り返ると小屋がありました。

そこには一人のおじさんが住んでいて、なんとなく、そこに帰らないといけないという気持ちを感じていました。



ヒーリングは1時間くらいでしょうか、色々と誘導される中、頭の中に浮かぶ映像に任せて進んでいった気がします。

最初から最後まで、私は一言も発することなく、ただ頭の中に浮かぶ映像を観ているという状態でした。

最後、どんな流れでそうなったかは忘れましたが、私の後ろに立っている「何か」を認識しました。
振り返ると「白いベールをまとったバカでかい女性」でした。

ヒーラーの方が
「その白い女性があなたのハイヤーセルフですよ」
と言ってくれて、「へぇ…」と思ったのですが、私は何も言ってないし、見えてるタイミングもわからないはずなのに、まるで同じものを観ているような物言いに驚いたのを覚えています。



そうこうしてヒーリングは終了。

結局なんだったのか、終わってみても分からずだったのですが、ヒーラーさんから衝撃の一言をもらいます。

「あなたね、その小屋でおじさんに拘束されていたの」
「だから、あなた男性苦手でしょう?苦手なのよ。これカルマ

えぇーーーー。



当時の私は、自分を特別なものと思いたいが強かったので、「あなたは世界平和のために美しい”善”の星からやってきた救世主でした」的なことを言って欲しかった。

でも、実際は
「過去世はおじさんに拘束されていた少女で、今世はそのカルマのせいで男が苦手なアラフォー」
でした。

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認めたくない消えない記憶

ヒーラーさんから衝撃の一言をもらった瞬間、私の中で強烈な「拒絶」が生まれました。

「男性が苦手?ありえへん。むしろ大好きですからぁ!!!」

とても複雑な気持ちのまま、そのカルマとやらをどう受け止めるか悩んでいました。

そして、私の出した結論は
「アレは間違いだ」
というものでした。



本来ヒーリングには続きがあったのかもしれません。
一度に解消するというよりも、少しずつ少しずつ玉ねぎの皮を剥くように、向き合っていくはずだったのかなと思います。

でも、私は向き合うどころか無かったことにすることをびました。

もちろんそのヒーラーさんのところを訪れることは2度と無かったし、過去世の話題になっても、拘束されていた少女のことは言わず、昔言われて嬉しかった「ピラミッドの設計士」と「教会の壁画家」だけを表に出していました。



それなのに、なんでもない日常の中で、ふと「あの景色」がフラッシュバックするのです。

アルプスの少女ハイジのあの草原小屋

ただ、その景色がフラッシュバックしても、感情が動くことはありませんでした。

「あぁ、あの時見たやつだ」程度で、フラッシュバックしても気にも留めない状態が数年続きました。

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自己認知と思い込み

相変わらず草原のことは時々思い出しても、カルマのことなど振り返ることもなく過ごしていました。

その間も、自分の抱える問題や弱点、そして自分の持つ価値などに目を向ける機会は多く、ヨガや瞑想、自己啓発などを通して新しい自分とたくさん出会っていきました。

変化や成長を感じられることはとても嬉しく、その体験を楽しんでいました。



そのまま数年が経ち、新しい出会いがありました。
一人はパートナーとなり、もう一人は仕事に大きく関わる人になりました。

いつから言っていたのか思い出せませんが、振り返るとそのあたりの私の口癖は
自由を奪われるのが嫌だ
というものでした。

この気持ちは日に日に大きくなり、何を失っても自由だけは失いたくないという執着のようなものに変わっていました。



ところが、前途の新しい出会いはどちらも「私の自由を奪う人」だったのです。

自分で嫌だといっておきながら、自ら大切なプライベートと、仕事という私の大半を閉める部分に関わる相手に支配欲の強い人を選んでいたのです。

そして私は、支配したくなるような、支配しやすいような、立ち振る舞いや言動をしていたので、これまでに経験したことがないくらいパワフルな精神的拘束を味わっていました。

いつでも離れることはできるし、たとえ一緒にいても私の自由は誰にも奪うことなんてできないはずなのに、当時の私は「奪われる人」でい続けていました。

そのための言い訳や正当化もたくさんしていたと思います。



そうして2年間ほど激しい怒りと不安の感情と共に「敵(分かり合えない人)か、味方(分かり合える人)か」という判断基準で、世の中を見ていたように思います。



ようやく長い呪縛から抜け出したあと、再び「あの小屋のおじさん」を思い出しました。

「あの時の出会いは、カルマによるものかもしれない」

ずっと拒絶していた消えない記憶「拘束されていた少女」という過去世を自分のものとして意識するようになりました。

もしかしたら、自分史上最悪だと思っていた2年間を正当化したかっただけかもしれません。

でも、もう一度しっかりと「あの小屋のおじさん」と「草原で佇む動けない少女」を鮮明に思い出してしまったのです。

そうか。
私はこのカルマがあるから、再び拘束される経験をしているんだな。



この気づきはとても救いになりました。
当時、自ら拘束されるような選択をしたのはカルマのためで、そのために現れてくれた相手を否定したり出会いを黒歴史と罵る必要もなくなると思えたからです。

その頃の私は、頭ではわかっていても、心では「私に嫌なことをした人」という思いがずっと消えなかったからです。



だから、そこからしばらくの間この「思い込み」を「自己認知」できたという意識で過ごしていたのです。

「私は拘束されていた過去世があるために、今自由を過剰に求めているのだ」
「私って、そういう人なんだな」

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再びあの草原へ

拘束されていた少女を受け入れた私は、少しサッパリした感情で過ごしていました。

友人になぜこんな時間を過ごしていたのか、そこにはカルマが関わっていたということを聞いてもらっているうちに、 もしかしたらこのカルマに気が付いたということは

今世で解消するからではないのか?

と思うようになったのです。



カルマは代々受け継がれているとも言われているようですが、そのあたりはよく分からないし、ご先祖様のためにとも思いませんでしたが、 とにかく今世でこのカルマは消えると。
そんな感覚がありました。



でも、どうやって解消するのかも、解消した暁にはどんな変化が起こるのかも、微塵も想像できませんでした。

その頃の私は「気がつく(知る)だけでいい」という考え方だったので、大きな変化や奇跡のようなものは起こらなくてもいいと考えていました。

そうして私の中でカルマの件は忘れてしまうほど「終わったもの」となっていきました。



そこから数ヶ月たったある日、体をゆるめる体操をしていると久々にあの草原の映像が頭の中に浮かびました。

「あ。ここ知ってる」

すぐに思い出してヒーリングを受けたあの日のように、浮かぶ映像をそのまま追ってみることにしました。
すごく不思議ですが、起きてるけど夢を見ている感じです。

すると、あの日と同じように草原に立っている私は、小屋に戻っておじさんに会いに行きたくなりました。

そして、「自分の意志で」おじさんのいる小屋へ入っていったのです。

私の姿は手も足も何も縛られるものはなく、自由でした。

でも、私は「手枷と足枷を外したい」と思ったので、何故かあるはずのない手枷と足枷を外し、おじさんの目の前でガシャンとダイニングテーブルに置きました。

続いて、浮かんだ感情は「このおじさんを許したい」というものでした。

そして、私はおじさんを抱きしめ感謝を伝え、小屋を出ました。



あの日は動けなかった、一歩が踏み出せなかった草原を越えて、私は街に出ました。

街の高台に立っている私の目の前には海が広がっていて、とても清々しい気分で「自分は最初から自由だった」ということに気が付いて、映像は終わりました。

だからなに?
という終わり方でしたが、とても満足した気持ちになったのでそれ以上深掘りせずにいることにしました。

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小屋のおじさんの正体

過去世のおじさんを許した私は、ご機嫌で過ごしていましたが、少し気になる疑問を抱えていました。

私の考え方でいうと、拘束されていたのは私の選択であり意志だったはずだから、許す相手は「そんな選択をした自分」のはず。

この世は全て自分が創っているのだから。

誰かを許したくなるってとても不思議でした。

誰かを許したいという、私の中の奢りかなと思ったりもしました。



ちょうどその頃、友人との会話の中で「許す」がテーマになったことがあり、私の出した結論は
「許す」とは「ただそのまま受け取ること
というものでした。

自分の中の正義とか正論とか、常識とか善とかの視点から、「ジャッジ」された上での結果(許し)ではないということです。

拘束したかったんだねー
拘束してたんだねー
わかったよー

これ以外は「感想」になるので、必要ありません。



タイミング的にそんな気づきがあったものですから、私の「おじさんを許したい」という感情も「ただ受け取りたい」だけなのかなと不思議に思いながらも、頭の片隅に置くだけにしてフォーカスすることはしませんでした。



その後、あるキッカケがあり、再び自分の中に今世で出会った支配する人への怒り嫌悪感が残っていることに気がつきました。

「まだ戦ってた」



その頃私の観ている現実世界には、支配欲剥き出しの人や、私を蔑ろにする人、失礼な態度を取る人が急に増えていて、その人達に憤りを感じている自分がいたことに気が付いたのです。

それはまるで、「おいおい、まだ分かってないよね」とでも言われているようでした。



そうなんだ…
結局あれは何だったのかな?
おじさんを許せたと思ったのにな。

あの時味わった感覚は思考とは違うものである自信はありましたが、振り出しに戻った気分になりしょんぼりしました。



すっかり元気を無くし、ムクムクと湧き上がる怒りの原因を静かに探しながら自宅へ戻る帰り道。

ずっと前から知っていたはずなのに、向き合いたくなくて、認めたくなくて、ひた隠しにしていたものがチラっと見えてしまいました。



支配したい
コントロールしたい
言うことを聞かせたい



全て、私の中にあるものでした。

自分が最も嫌っていた、否定し続けていたものを、ガッツリ自分が持っていた。

一瞬ショックのような感情が通り過ぎましたが、その後もう一度蓋をしました。

直視はまだできない。

でも、気が付いてしまった。



私は自分の中の「新しい部分」を見つけるのが大好きです。
でも、それは苦痛を伴うことが多いのです。

でも、好き。
その後とても幸せになれることを知っているので。

だから、この「気づいてしまった状態」が「新しい部分」を見つけたことであることも知っていました。

ただ、今回は非常に大きなものであったため、楽しめる気がしない。



一晩蓋をした状態で、やり過ごしました。

翌日だったかその次の日だったか…友人とランチをしている時に「私は支配欲を持っている」ということを口にしました。

これは私の常套手段なのですが、一人で受け入れる作業をすると逃げたり、折れちゃったりするので、必ず誰かに聞いてもらいます。

アドバイスが欲しいとか、何か言って欲しいわけではなくて、自分の口から発した言葉を自分の耳から入れるためと、第三者に聞いてもらうことで「なかったこと」にできなくすることが狙いです。



この時点で、とても楽になりました。

やっぱり。
新しい部分を見つけたら幸せになるって本当だなと、しみじみ感じながら、受け入れ難かった自分の部分を受け入れることができました。



不思議だった「おじさんを許したい」という感覚は

支配欲を持った自分に気がつきたかった

というものでした。

あの小屋のおじさんもまた、だったのです。

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カルマは悪なのか

自分の中にあの小屋のおじさんがいたと分かってからは、おじさんがおしくて仕方ありません。

よく人は自分のだとか、自分の状態は現実世界を見ればわかるとか言いますが、まさに!

今回ほどそれを痛感したことはありません。



すごいね!マジで鏡!



それほどまでにパワフルな支配欲を持っていました、私。



そのことに気が付いてから少しの間持っていた「恥ずかしさ」や「自分を愚かだと感じる気持ち」は、徐々に薄れていきました。

この話を聞いた友人に「誰かを力強く導くのはあなたの本質だから、言うことを聞かせること全てが悪いわけではない」と言ってもらえたからです。



そう。
支配という言葉は心地よくないし、まるで悪いことのように思えるけど、必要とする人の手を引いて力強く動かすことは、決して否定するものではないのです。

これは、役割であって、その原動力が何から生まれたものなのかだけ、大切にすればいい。



ある晩、友人とうどんすぎを楽しんでいるときに、まさにこの言葉を聞くことができました。

愛から生まれたものなら、相手にはちゃんと伝わる

自分を隠すための欲から生まれたものは、反発となる。



寄り添う講師でありたい

この欲求は、愛から生まれているときだけ、相手に向ければいいのだなと思います。



今回の6年間に渡るカルマ問題、果たして解消したのか、していないのか。

それは私が生まれ変わるまで分かりません。

だから、解消するとかしないとかにフォーカスすることは、しなくていいなと思います。

そもそもカルマは解消しないといけないものなのか?
カルマとは悪なのか?
解消ってなんや?

湧き上がる疑問に私が出した答えは

「カルマは許すだけでいい」

ここでいう許すとは、ただ受け取るだけということです。

先人が受け入れられなかった傷なのかもしれないし、魂がやってみたかったことかもしれない。

そもそもカルマなんてないのかもしれない。

でも、私の6年間はとても有意義な時間に変わったことは事実なので、もうそれでいいんです。



2018年のお正月に、過去が描き変わる体験をしました。

過干渉の親の元、弟ばかり愛されて、我慢ばかりの常に耐え忍ぶ不憫な長女だった過去から

自分の出来る範囲での我慢をしながらも、ちゃんと愛され、自由にのびのび生きていた、寂しがり屋の過去へ。

どこに意識を向けるか、どう捉えるか、自分の思い込みと事実にはギャップがあると知ることで、過去は変わるという体験でした。



2017年4月のあの日から2023年4月までの私の過去は、これまでとは全く違うものに見えるのだろうなと思います。



何はともあれ、スッキリ



floweroflife

終わったと思っても

ここまで読んでいただいて有難うございます。

これは、私が経験したカルマとの出会いから、スッキリするまでのお話しです。

カルマという言葉を使わなければ、ただのトンチキ妄想を使った心の成長記でしょう。

見えない世界のことは好き嫌いもあるし、十人十色で様々な解釈ができるので、自由に受け取ってもらえたらと思います。



改めてこの6年間を振り返ってみると、その間の感情の動きがとても面白いものだなぁと思います。

何か新しい気付きがある度に「分かった!!」と、これが最後だ!という感覚になるのです。
それは、登山で山頂にたどり着いたような感覚です。

「終わったー」

と両手を上げて達成感のようなものを味わうのですが、すぐに新しい道が現れるのです。

終わってなかった。

毎回。ホント毎回。

私バカなのかな??と思うほど、毎回繰り返します。
でも、きっとこれを一生繰り返すのだろうなと思います。

私はこの現象を「心の中のマトリョーシカ」と呼んでいます。
もう最後だと思っていじってたら、パカっと開いてもう一つ出てくる。

それを楽しむのが人生なのかもしれません。

だから、変化と気付きはやめられない。

一旦6年間のカルマ問題は終えたつもりになっていますが、もしかしたらまた何か出てくるかもしれません。

違うテーマかもしれないし、同じテーマかもしれない。
それは、出てきた時に楽しむことにします。

そして、この振り返りでは私にとってのもう一つのテーマ(カルマかどうかは分かりません)についても考えることができました。

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頼るということ

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